俳句や詩、文芸もそうかもしれませんが、記された言葉が全てではなくて、その言葉から風景とか、感情とかが導き出されるからこそ、その芸術性というのが成立しているのかなと個人的には思っています。そして、記されていないものが多くの人で共有できると、より多くの人に届く芸術になるのではないかと。

一方、そういった芸術性を求めない言葉は、文脈の中で成立することが多く、一部だけ切り取ってしまうとその文脈が見えなくなってしまうんじゃないかと思います。

なので、その文脈が見えないために、切り取られた言葉を受け取った側が好きに文脈を定義して、その評価を下してしまうという往々にあります。ニュースなんかで人の発言が一部分だけ切り取られて騒ぎになる話などはその典型ではないかと。

これって、ホモ・サピエンスが持つ虚構の共有という能力と、システム1による反射的思考という人間の思考回路のメカニズムを、インターネット上でうまく利用した情報の拡散方法なんじゃないかと思います。

『サピエンス全史』と『ファストアンドスロー』を読んだ(読んでる)お陰でそんなことを考えるようになりました。

で、最近良く見かけるのが、刺激的なフレーズだけを流布することで、様々な人達の「俺にも言わせろ」を喚起するケースです。この場合、文脈をすっ飛ばすことで、受け取る側がフレーズの刺激性に引っ張られた文脈を組み立てて「俺にも言わせろ」をやってしまう。

現象としては面白いんですが、あんまりみんな幸せにならないというか、みんな何か言ってコミュニケーションを取っているように見えて、断絶が生まれているような、寂しい感じになってないですか?

オチもない文章ですが、思ったことを書いてみました。

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